23.朝鮮の歴史記録に見える倭国空白の150年
この倭の空白の時期が記された文字が高句麗の好太王碑碑文に見つかっています。高句麗の長寿王(413~491年)が父好太王(391~412)の業績を称えて414年に建てたといわれる高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの石碑です。
1880年頃に農夫によって発見され、拓本が作成されましたが、1802文字の漢文の碑文は風化によって判読不能な箇所もあり、劣化を防ぐため今はガラスケースで保護されているそうです。
倭に関する辛卯年条というのがあります。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘■■新羅以為臣民
■■は判読不能 文字
「辛卯年条」は391年ということで、391年倭国は百済、新羅に侵攻したということですが、文字が判読不能ということで、国によって解釈が異なるようです。
上記漢文は次のように読まれるようです。
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
以下は倭に関する碑文を(Wikipedia)より転記しました。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで好太王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた
三韓征伐(日本歴史)
日本歴史の歴史に神功皇后の三韓征伐というのがあります。好太王碑碑文に倭国の侵入が記録されていますが、三韓征伐は391年のことでしょうか、399年から400年に続く方でしょうか。
御懐妊中であった神功皇后は帰国後、後の応仁天皇の誕生を経られます。応神天皇と比定される讃は
421年 (南朝)宋の高祖(武帝)に倭国王讃 朝貢 という記録が宋書にあります。
399年、400年の戦いは冬を越すということでしょうから、この戦いは神功皇后には無理でしょう。
391年の戦いであれば、讃の宋への朝貢は30歳の時となります。次の倭王珍は宋書では讃の弟となっていますが、日本では讃の子となっています。
古墳が4世紀前後、全国規模で増えている意味がこの辺りにありそうです。
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