第二次世界大戦(当時は大東亜戦争と言っていました)が始まった時、私は小学一年生、中国東北部(旧北満)の虎林(終戦直前、全滅したといわれる)に居ました。間も無く同じ中国東北部で同じように全滅した綏芬河近郊の寒葱河に三年生まで、そして清原という町で終戦となり,撫順に逃げ、終戦翌年葫濾島から舞鶴を経て父の故郷へ帰りました。その間のこどもの目で理解した戦争そして終戦を書いてみました。
1 虎林の町
私は旧満州の虎林という町を、最近ダウンロードしたGoogle Earthで探してみました。
虎林は私が小学1年の1年間を過した町です。地図で虎林と書かれた小さな丸を東経133度北緯45,7度辺りと推定して、Google earth で探すと町の集落が見えました。
少しアップしてみると、地図はぼけますが、記憶とつなぐことはできそうです。
地図を少し水平にしてみました。
町の中央辺りに東西に走る黒っぽい線は汽車の線路のようです。駅は分かりませんが多分矢印の1辺りかとおもいます。
私たち家族は父に伴われてこの町のプラットホームに降りました。私は6才、昭和16年の春でした。
駅から1本の道が北の方に伸びていて、小学校(矢印2)の辺りで終わっていたようです。日本人の通う小学校をその頃、在満国民学校といいました。
小学校の北一帯は丈の低い草が生えた野原になっていて、その真中辺りにポツンと2軒、小さな家が南を向いて並んでいました。
私たちの家はそのうちの西側で学校の正門から野原を突っ切って歩いて行けました。そこから、北側一帯に、日本人の住む住宅(矢印3)が建っていましたが、建築中のものが多く、これらの住宅は町の外れの小高い丘の麓まで続いていました。
この小高い丘(矢印4)を私は花の丘と呼びました。この丘には大きな木は生えていなかったのですが、小さな野性の花々が丘を埋めていました。スズランの花、ユリの花、名前を知らない小さな季節の花々が咲き乱れていた感じでした。日本人の住宅や花の丘、学校の辺りをgoogle eatyh 上につなぐことが出来たようです。