1995年1月19日
大阪へ
神戸から西宮まで歩くなど考えられないことだった。しかし西宮まで10キロほどと知り、2時間半くらいで行けることが分かった。リュックに食パン4切れ、人参がたっぷり入った小さなハンバーグ6個、1リットル入りオレンジジュース1本、それに着替をそれぞれ3組ほど入れ、自転車に積んだ。残った食品は私たちを家まで送ってくれた、Kさんの塾に避難していた人に持って帰ってもらった。Kさんの塾には夜になると大勢の人が集まってきていた。
私たちはこの日、大阪に住む妹の家に行くことになった。妹たちは両親やこどもたちと暮らしているので、私たちより大変な状態になっていると思っていた。そんな妹たちが私たちを車で救出するためあちらこちら所在を尋ねたと聞いてまづ驚いた。そして、昨日の電話で、今お店から帰ったと言った妹の言葉に、仰天した。お店が開いているの?
戸締りは
ドアが閉まらないのでリビングの扉を内側からガムテープで貼った。 夫の部屋の扉には鍵がついていた。夫の部屋と和室の間にある押入れは数年前に両方から使える洋服ダンスに作り変えたので、リビングから洋服ダンスを通って夫の部屋、そして扉に鍵をかけて玄関へ、と行ける。これで戸締りは十分。
リビングから玄関への通路
ただ、通過する和室1は、パソコンを始め、シンセサイザーなどのコードが絡み合って、落ちているので、私が滑り降りたベッドを乗り越えて洋服箪笥に入る、という方法であった。
和室1の写真
右上辺りにベッド (私はこれらが落下する直前に真中辺りを通過)
国道2号線
西宮への国道2号線の歩道は東に歩く人のゆっくりした流れになっていた。車道は人が歩くほどの速さで車が動いていた。リュックを担いで歩いている人は歩道からはみ出し、自転車、オートバイ、歩く人に車道の端は使われた。西宮に近づくと 神戸を出ていく人、神戸に入って来る人と、ともに同じくらいの数だった。入ってくる人は水の入ったポリ容器をいくつも下げていた。途中で動けなくなるのではないかと思うほどの荷物も持っている人もいた。荷物を持っている人たちがぶつかるような事も無く人々はゆっくり流れた。
夙川べりで昼食をとった。沢山の鳩に囲まれ、少しきみ悪かった。夫はこの辺りから歩みが鈍くなった。
西宮市に入ってから、西宮北口駅まで相当あった。北口駅近くのスーパーの自転車置場に自転車を置いたとき、鍵をかけないで、反対方向へ行く人に使ってもらおうかと迷った。しかし、この後また家まで自転車で行かなければいけないこともありそうだったので、鍵を掛けた。西宮からは10数分、神戸とは別世界の騒音にあふれた大阪に驚き、地震が局地的であったことを知った。
妹の家では風呂が沸かされていた。お布団には電気毛布が敷いてあった。お茶がおいしかった。
大きなテレビが死者の数を伝えていた。義弟の両親が夕食にお寿司を準備してくれた。
医院で
大阪に着いて早速夫の頭の傷を見てもらうため医院に行った。傷はもう治っていた。
医院で、地震直後、大阪から神戸に駆けつけ、潰れた家から母親を助け出したという人が隣に座っていた。17日夕方に火の手が上った辺りにお母さんは住んでいたという。あの火は暖を取るために点けた火が燃え出したらしいと言われた。火の手からお母さんを助け出したという事でもあった。私が多くの人の死をただ思っていた時、瓦礫の中の命を探し求めて動いていた人達に、思いは至らなかった。