1995年1月21日
自転車で神戸へ
借りた家はこの日から使えるので、この日のホテルはキャンセルした。この頃ホテルはどこも満員だった。ホテルを6時に出たが、帰りの切符の予約などで時間を取り、外はすっかり明るくなった。私と息子は自転車でこの日神戸まで行ってくる事になっていた。
妹が作ってくれたおにぎりを大きな箱に詰め、ペットボトル2本の麦茶を荷台に乗せて出発した。地図を頼りに走る神戸への道は分かりにくかった。西へ西へと広い道を走っていると、同じようなリュックの人が同じように自転車で走っていた。2号線に入ると歩行者が多く、自転車で走るのは難しかった。芦屋を過ぎた辺りから43号線の近くを走り、深江からは北に上がった。そこの交差点近くで、1階がすっかり無くなっている5,6階建の鉄筋住宅を見て、震えた。一見無傷に見えた建物だった。そこの近くに80度ほど北西に傾いた茶色の高層の住宅があった。
息子はシャッターが切れないと言っていた。私も地震直後の家の写真は数枚撮ったけれど、外の写真を撮ることがまだできない。
鳴尾御影線の傾いた家や潰れた家の間を進むと何事も無かったように建ている我が家が見えてきた。マンションの玄関を入ると通路の上のコンクリートが転がり落ちて、鉄筋がむきだしになっていた。
持ってきたおにぎりを出会った人や同じ階の人に配った。子どもがお漬物をどれにしようかと迷ったのが、いじらしかった。
最初にファクスの電話機を探した。1メートルほどの高さから落下しているので使いものになるとは思えなかったけれど、夫のコートに包んで自転車に積めるようにした。次は携帯用ワープロ、これも1メートルほどの高さから落下しているので望みはなかったが、我が家の高級品であり、運ぶことにした。息子は父親が使いそうな辞書などを選んでいた。
和室2の家具の様子 矢印は倒れた方向
私は和室2を片付けた。和室2の押入の襖は中の物に押されて2枚ともはずれていた。
倒れなかった和タンス
和箪笥の上に置いた木箱が天井との隙間を埋めていたため、他の家具のように倒れず、北西向きに少し回転して、半分ほど飛び出した引き出しに支えられていた。
和ダンスと並べて置いていたデスク型本箱は飛び出した本の上にばったり。本箱を持ちあげると中身が垂直に落ちてきた。
天井板に切り込んだ照明器具
天井板に鋭い三角錐の切り込みを2つだけ残して照明器具は北北西に飛んでいた。
カーブした板ガラス
プラスチックのフィルムを貼りつけた食器棚の板ガラス扉は、食器に押されて、カーブしていたが割れなかった。
冷蔵庫はジャンプしていた
冷蔵庫の上に観音開きの棚を天井ぎりぎりの高さに置いていた。20秒の激震は1センチほどの隙間を使ってジャンプを繰り返し、前に7センチ横に5センチほど動いた。なんと恐ろしいことかと思ったが、それだけではなく、その下に私の愛用していたピンセットをふんずけていた。
来るのに3時間かかっているので帰りは、ライトもないので、2時までには出発したかった。電話もひっきりなしにかかってきて、電話を受けている間に2時40分になっていた。
帰りは43号線を走った。上が高速になっているので、道が落ちたり傾いていたり、支柱が曲がっているなど、恐ろしい光景が続いた。鳴尾辺りで43号線から離れ、残していた2個のおにぎりを食べた。神崎川を渡る頃はすっかり暗くなり、ライトが無いのでなるべく明るい道を行くことにした。大阪市内に入っても道はいつまでも続いた。妹の家に着いたのは6時20分、煮物、お刺身、塩湯での蟹とご馳走が待っていた。娘も寝ておれなかったようで、銀行や借家の手続きに付き合い忙しい一日だった。息子はその晩借家に行った。
夜、私は左足の土踏まずが痛み、眠れなかったが、朝になると痛みは取れていた。