1995年1月28日
大阪の町中を運転してレンタカーを返し、その後ハンガーや突っ張り棚などを買いに行った。
1995年1月29日(日曜)
妹たちが ワゴン車で神戸へ
娘は東灘小学校へ
娘は災害救助のボランテイアで東灘小学校へ。義弟はワゴン車を借り、大きな荷物を運びに神戸に。警察で緊急用のマークがもらえたということで、2号線が使えた。渋滞も無く、1時間と少しで家に着いた。マンションの入り口には壊れた家財やガラスなどが積まれて、路が狭くなっていた。
車が大きいので、この日は夫の机を運ぶことにした。机も大きいけれど、椅子が大きいのでこれだけで一杯になりそうだった。しかし、こたつや大型テレビなど手で運べない大きな物がほとんど積めた。
帰りも1時間くらいで、2時に帰り着いた。
電話がつながり、このところお見舞いの電話が続いている。
夕方芦屋の I さんから電話があった。「Nさん大丈夫でしたか」「ええ、貴方は」「無事でした。連絡先が扉に書いてあったけれど、大阪におられるのですか?OさんやSさんが、Nさんにいくら電話をかけても通じないので、貴方しか行ける人はいないの。行って見てきて、と言われたので、今日お宅まで行ったのです」「まあすみません。遠いところを。途中が危ないのに大丈夫でしたか?」「主人と東京から帰ってきた息子に一緒に行ってもらったの。息子は他にも安否を確かめたいところがあったので、気にしないで。途中の崩壊した家々の恐ろしい様子が思い返され、言葉もないわ」 I さんは3駅も先から歩いて安否を確認に来て下さったのだった。
Oさん(垂水区)とSさん(西区)そして I さんの3人を含む計7人はこの後 “79人の20秒” と題して阪神・淡路大震災の小冊子をまとめることになる火曜会という名の仲間である。