気の向くままに:私の阪神・淡路大震災
2008-05-11T13:37:55+09:00
mog1326
気の向くままに
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録1
http://mog1326.exblog.jp/8006677/
2008-04-14T15:47:00+09:00
2008-05-11T13:37:55+09:00
2008-01-17T05:56:54+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
1995年1月17日午前5時46分52秒、未曾有といえる大地震に突然襲われ、阪神間に住む6000人を越える命が消えました。それから13年、地震予知がやっと芽生えましたが、防災の域には達していないようです。
私たち火曜会グループは主婦の立場から被災体験を集め、防災に役立つようにと1年後、冊子にまとめました。
その冊子が出来るまでを13年前の私の記録として整理してみました。
冊子はこの後コピーしてブログに転載します。
1995年1月17日
13年前のこの時
1995年1月17日午前5時46分52秒、私は神戸市東灘区住吉川近くに建つ地下1階地上7階建の4階のベッドの上だった。地震の2、3分前に目をさまし、床の中で背伸びして両手を伸ばした時、電気スタンドのスイッチに手が触れ、部屋に明かりが広がった。その直後カタカタと家具が鳴り、明りは消えた。明りは一瞬だった。
カタカタの後はガーと大きな南北の揺れ、そして、1秒間に十数回と思える激しい上下振動になっていた。
最初のカタカタという音で”地震だ、玄関のドアを開けなければ”と反射的にベッドから滑り降りた。夫の部屋で、ガンガンガンガンと凄まじい音がするのをその中で聞いていた。畳に足がついたのは憶えていないが、2、3歩進んだ辺りでベッドと平行に置いていた前面がガラスの大きな本棚の上からザーと雨のような音をたて、肩から背中にかけて本が降っていた。体が後ろに(北側)に引き倒されそうになった。骨盤か背骨がへし折られるような痛みを感じた。本棚の下敷きになったら大変と必死で目の前にあるはずの柱をつかまえようとしたが、出来なかった。ところが次の瞬間、つかまえようとしていた柱を通過して、隣のリビングに立った。その頃は家中が、グワングワングワングワンと、激しく上下に振動していた。
天体がぶつかったと思った
”マンションのコンクリートが砕かれている。天井が落ちてくる。それなのに頭を覆うものを持っていない”と、無防備でベッドを飛び出したことを一瞬悔やんだ。柱の下が安全か、それとも危ないか、判断できないままに柱につかまっていた。カクテルのシェーカーを振るようなスピードの上下振動、あまりの上下振動の激しさに”これは天体がぶつかってしまった”と考えが変わっていた。”間もなくこの建物も崩れ、舞い上がった粉塵で太陽がかくれ、世界中の生物は死に絶えてしまう。たとえしばらく生き残っても、そして粉塵の世界を歩きまわれたとしても、こどもたちにめぐり遇えることは、もうない”。遠くで、この恐怖の中に立っている娘の姿がまぶたに浮かんだ。
それにしても高熱が感じられない。ふとそんな疑問もわいた。
突然静かになった部屋に、食器棚の中からワイングラスが転がる軽い音が響いた。続いて上の方からバケツ数杯ほどの水が落ちていった。”なんだ地震だったのか”そして”天体の衝突で無く、地震でよかった”と思った。30秒近い揺れと感じた。こんな地震に耐えられた家は少ないだろう、そう考えたとき、震えが来た。
東に火の手が東にあるベランダのカーテンが開いていて、火の手が、2か所見えた。1つはビルの4、5階辺りからで、南の方に水平に炎が吹き出し、もう一ヵ所は少し遠くで、阪神高速の辺りのようだった。火災があちこち起こるのではないかと思ったが、2箇所だけだったのは意外で、ほっとした。
水平に長く伸びた炎は、消防車を呼ぶこともなかった。人も動かなかった。オレンジ色を帯びた赤い炎は、明かりの無い真っ暗なビルの並ぶ町を、一層暗く濁らせていた。生駒山の稜線がうっすらと、こちらも濁った赤色をにじませていた。犬が鳴き、どこかの非常ベルが鳴り続けていたが、人の声は聞こえなかった。何万という人の死が思われた。
東 (白いのは何か分からない)
地震後のリビング
夫Hは頭に怪我
夫は4時に起きて書き物をしていた。はじめから地震と分かったという。ガンガンガンガンという上下振動で机が飛び跳ねるので、これはひどいと机に潜ったが、その時にはもう頭にけがをしていた。凶器は厚さ8ミリほどの板硝子が割れたもので頭の表皮が薄く削がれていた。直後は暗くて傷の場所が見えないので、救急伴の大判を張り、乾いたタオルで押さえた。9時前に治療に出たが、医院はどこも閉まっていて、消防署で傷口を押さえてもらっただけで帰ってきた。
揺れがおさまって、地震だったと気がついた時、次にくる余震を避ける場所を探した。テーブルの下を手で探ってみたが、何かがいっぱいつまっていて、私の体を入れる場所は無かった。何が詰まっているのか足を入れてそっと動かしてみた。何だかべっとりしたものが足に付く。どこも痛くないけれど、怪我をして血でも出ているのだろうかとひやりとしたが、それは冷蔵庫の上の棚から落ちた梅酒と、後で分かった。
玄関扉が開かない
余震の逃げ場、を探している時、「玄関の鍵が開かないぞ。ペンチを持ってきて」と夫が言った。私は玄関を開ける為に走り出したことなど、すっかり忘れていた。ペンチなどを入れていた引き出しの棚は私の部屋の出口に置いてあって、襖を倒してリビング側に動いていただけで、暗がりの中でもペンチを手探りで捜し出せた。玄関までペンチを持って行くのにガラスが危ないと思ったが、スリッパは倒れた家具等の下で、探し出すのは不可能だった。靴下を入れている引き出しも手が届くところにあったので、手探りで厚手の靴下を探したが、薄い靴下しか、手に触れなかった。役に立ちそうにもない薄い靴下をはき、ガラスに気をつけながら、ゆっくり歩いた。気をつける、といっても暗くてガラスは見えないので、足の触感を頼るだけだった。玄関にたどり着くと手探りで靴を探した。玄関口は下駄箱から飛び出した靴などが積もっていたが、箱に入ったままのがあったので「下に置かないようにして履いて」と夫に渡した。折角探した靴も一旦下に置いてしまうと、もう分からなくなってしまう。何が積もっているのか廊下は簡単には歩けなかったが、靴を履くと動きは速くなった。
辺りが白んでくると部屋のおぼろげな様子が見えてきた。リビングは落ちたもの倒れたもので埋まり、その上にはずれた襖が乗っかり、胸の高さくらいまで物で埋まっていた。
部屋の中が何となく焦げるような臭いがしていた。地震と同時に電気は切れている。ガスの元栓も切ってあるので、臭いの原因がわからない。分からないまま臭いは無くなった。
地震に無防備だった
この頃になって地震に完全無防備だったことに気づいた。水道の蛇口をちょっとひねってみると、細い水が出ている。ほっとしてやかんに1杯、ボールに1杯、ウイスキービンに1杯とコーヒーポット1杯の水をとった。水はまだ出ていたが、これだけあれば救援活動が始まるまで大丈夫と思った。 体のどこかが震え、声がうわずり、無性に喉が乾いていたので、コーヒーポットの水はそのすぐあと飲んでしまった。夫は飲みたくないと言って、その日は水を飲んでいないようだ。
食べ物も3日間食べつなげば救援も届くようになるだろうと、食べ物を集めた。冷凍庫、冷蔵庫は扉が全開し、中のものは飛び出していた。2日前に人参と玉葱をたっぷり入れて作ったお弁当用ハンバーグを拾い集め、電気の切れている冷凍庫に戻した。
玄関のことは夫に任せて、飲み水を取っている時「鍵は開けられたけれど玄関が開かないぞ」と夫が言った。私はソファーの上を歩いてベランダに出ると、隣の人を大きな声で呼んだ。このマンションで最初の大声だった。「Oさん、玄関が開きますか?」「まだ玄関まで行けていないのです」と返事が返ってきた。声でOさんご夫婦も無事と分かった。外はまだ暗かった。ガスの匂いがしないかどうか、空気を吸ってみた。ガスの匂いは無かった。原子炉が近くに無くて良かった、とふと思った。
「万一の場合はロープがあるからいいよ」と、私は役に立つ時が来た避難用ロープを、後で探そうと考えながら言った。しばらくして、うちも開きません」とOさんの声が聞こえた。
扉に体当たりして開けてくれた人たち
その頃南側の棟のローカに人の声がして、玄関を外から次々にたたいている音がした。 やがて我が家の前で「これから開けますからドアの近くの物を除けてドアから離れていてください」と声がした。「いいですか、ドアから離れてくださいよ」「いいですか、離れましたか」と繰り返した後、ドアに体当たりしているようだった。少しドアが開いたので「ありがとうごさいました」と言うと、「もう少し開けておきますから離れていて下さいよ」と言って人が通れるほど開けてくれた。誰なのか確かめようとしたけれど、暗くてよく分からない。この人たちが誰だったのか、分かったのは3ヵ月ほど後だった。この時、ここのマンションの何人かの人たちが、ドアを開けるために駈け回り、開けた人もどこを開けたのか覚えていないようだった。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録2
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2008-04-14T14:30:00+09:00
2008-05-11T07:27:58+09:00
2008-01-18T23:30:47+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
公衆電話
「早く電話をしなければ」。ニュースを耳にすると、東京に住むこどもは勿論、親兄弟みんなが心配する。娘が目覚める頃を見計らって、電話を掛けようと、扉の隙間からローカに出た。
ローカ天井のコンクリートがあちらこちらで割れて、小さな余震でも落ちそうだった。川沿いの大きな木造の家が潰れていた。華奢な旧谷崎邸は建っていた。阪神魚崎駅近くの公衆電話は掛からなくなっていたので、区役所前の公衆電話に急ぐと、途中の消防署に公衆電話が置かれ、2,30人の列が出来ていた。私の2人前の女の子が突然「かからなくなった」と言った。「叩いたらいいですよ」「お金が入らなくなっているのですよ。10円玉を使わないようにする方がいいですよ」と何人かの人が言って、電話機を叩いた。女の子が掛かりましたと言って通話を始めた。「家が潰れてんねん、お婆ちゃん呼んでも返事せーへんねん」。
私は娘がまだ家にいるだろうか、長電話中ではないだろうか、などと心配しながら受話器を取り上げると音がおかしい。電話機をぽんぽんと叩いて、プッシュボタンを押して待っていると、娘の声が聞こえた。「こちらで地震があったけれど心配しなくていいよ。二人とも無事だから」「お父さんは大丈夫?」「大丈夫、大丈夫」とだけ。「AとBとCに連絡してね」「うん分かった」100円玉がカチンと落ちた。電話を掛けている時ちょっと強い余震があった。少し前に救急車が動いていた。
神戸脱出
外に出て惨状に足が震え、家に帰ると神戸脱出の方法を考えながら、棚から放り出された品々の山を元の所へ戻す作業を始めた。戻している時余震が来ると危ないので、棚に入れるとすぐ扉の把手をタオルでしばった。棚に入れるものをまとめ、一気に入れて、縛る。それを繰り返して整理した。ガラスの破片を片付けるのに、色々な手袋を使った。どれを使ってもガラスの小さな破片が侵入するようだった。薄い皮の手袋はガラス破片に強そうで、実は最も弱くかった。絨毯にこぼれた醤油や梅酒は新聞紙に吸わせた後、濡れたタオルを使った。
洗面所にはぐっしょり濡れたタオルが大量に落ちていた。特別な匂いもしないので、何の水かわからず気持ちが悪かったが、しばらくして風呂の水があふれ出たものと分かり、ビニールの大きな袋に入れていろいろ使った。
夫は散乱した本の中から本の間に挟んでいたへそくり探しに、終日を費やしたそうだ。
近くで火の手が
ラジオも懐中電灯もどこに飛んでいっているのか分からないので、明るいうちに夕食をすませ、眠る準備をすることにした。
ご飯は少なかったけれど、冷凍が解けかけたてんぷらや焼き魚などおかずは沢山あった。ジュースも1日でほとんど1リットル飲んだ。その分水は飲まなかった。
早い夕食をすませた頃、甲南本通付近で煙が立った。もう壊れた家の後片付けを始めたのだろうか、と驚いていると、一気に炎が高く上がり煙が黒く変わった。地震から12時間も経っているのに今ごろ大きな火になることもあるのだな、と少し不思議だった。火が燃え上がっている近くには若い人が大勢下宿しているアパートがある。火はその白いアパートのまわりを南のほうへ広がっていく。消防車は来ない。サイレンも無い。人々の騒ぎも聞こえない。
とりあえず何処かへ
地震がおさまった時、壁の中を落ちて行った水の音は配水管か、給水管が壊れたものと思った。水や電気が復旧するまでしばらく移住することを考えなければいけない。どこに移住するかは簡単には決められないので、神戸からあまり遠くない白浜か淡路島のリゾートホテルを娘に予約してもらおうと思った。淡路島は週末泊まりに行く予定の所でもあった。交通情報などは娘に判断してもらえばいいと思い、娘が家に帰る時間にはまだ少し早いと思ったけれど、電話をかけてみようと二人で外に出た。マンションのローカから六甲山周辺に電気が点々とついている。山の方は被害が少なかったのだなと思った。道は凸凹して歩きにくい。消防署前の電話にはまだ人が並んでいた。
誰もいないはずの下宿の受話器が上がって、娘の声が聞こえたので、驚いた。今日は一日中家にいたのだそうだ。娘が”お父さんは本当に大丈夫?”と言うので、夫に交替すると”頭を少しけがしたけれど大丈夫”と言っていた。
電話を終えた後、消防署の人に「震源地はどこですか」と聞くと「淡路島の北の方です」と。「淡路島?」と繰り返し、唖然とした。震度を聞くと、4とも6とも言われていると。「渦が森には電気がついているけれど、この辺りの被害が一番大きいのですか」「阪急から下の方、長田、須磨までずーっとひどい」。かなり年配のその人は忙しい中要領よく教えてくれた。
マンションの前の道には車が数珠つなぎに停まり、明りもついている。車を停め、中で夜を過ごす人、ゆっくりながら神戸から異動している人、車を持っている人が羨ましかった。
くっきりと明るい満月が湾岸線のつり橋の上辺りに出ていた。
ローカの天井の梁などは崩れているけれど、マンション全体が傾いていることもない。あれほどの地震に耐えたのだから、今夜相当の余震がきても建物がつぶれるようなことは無い、と建物への信頼感みたいなものがどこかにあった。ドアは開けたまま、オーバーを着たまま、靴のありかをしっかり確かめてベッドに入った。
その夜は何回か揺れたが、気違いじみた揺れは無かった。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録3
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2008-04-14T13:19:00+09:00
2008-05-11T07:46:40+09:00
2008-01-20T21:19:45+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
LPGタンク爆発の危機
翌朝、LPガスのタンクに亀裂が見つかり、爆発の恐れがあるので、山の方に避難するようにという情報が流れた。学校などに避難した人たちから伝えられた。地震に続いてガスの大爆発、私は爆発がどんなものか想像もできない。どこにも行き様が無いのでマンションにとどまると言う人もあったが、私たちは、リュックに貴重品を入れ、毛布を持って山の麓のK大学へ急いだ。住吉川沿いの道を上流に移動する人、避難所で夜を過ごして家に帰る人たちだろうか、反対側に異動する人など混乱していた。国道2号線を越えた辺りで腰を降ろしている人が多い。私たちはさらに川をさかのぼり、阪急の高架をくぐった。灘の酒用の貯水池傍に早くも給水車が出て長い列が出来ていた。K大学への道の辺りは倒壊した家も無く、地震があった後とは思えなかった。瀟洒な家の前で道を掃除している人に「どこに行かれるのですか」と聞かれ「LPガスが爆発する危険があるとかで、避難するところです。この辺りは被害が少ないですね」と言うと、「家の中は大変なんですよ。でも一服していかれませんか」と家に入るようにすすめられた。なんとも暖かい言葉だ。私たちの毛布を持った姿が同情を呼んだのだろう。勿論辞退して大学へ。大学ではテレビ放送が見られた。
私は娘に現状を知らせるため大学近くの公衆電話に並んだ。娘は西宮まで歩くと西宮からは電車で大阪へ出られることを伝えた。そして大阪で落ち合うことが決まり、翌19日早朝に家を離れる事になった。
岡本に泊まる
公衆電話に並んでいる時、息子の小学時代の同級生の母親Kさんが私を見つけて家へ誘ってくれた。Kさん宅の辺りに倒壊した家は見られない。Kさんは激しい揺れだったが、ローカの壁で体を支え、倒れてきた箪笥も支えたと言った。
Kさん宅にはもう一組の家族が迎えられた。その家族は大学生の一人息子さんが下宿先で生き埋めになっていた足を見つけ、無事引っぱり出したと、その喜びを繰り返し説明された。息子さんは夜遅く現われた。
この日はKさん宅で、Kさんの遠くに住む親戚から昼夜オートバイを駆って届けられたお寿司の夕食をご馳走になった。皆の無事を祝うのだとウイスキーやブランデーなどが空けられた。その晩はKさんが経営している塾に一泊した。
LPGガス爆発の危険が解除になった情報は無かったが、翌朝は家に帰り、大阪に向かう準備を急いだ。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録4
http://mog1326.exblog.jp/8054397/
2008-04-14T12:11:00+09:00
2008-05-11T07:29:34+09:00
2008-01-23T07:11:07+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
大阪へ
神戸から西宮まで歩くなど考えられないことだった。しかし西宮まで10キロほどと知り、2時間半くらいで行けることが分かった。リュックに食パン4切れ、人参がたっぷり入った小さなハンバーグ6個、1リットル入りオレンジジュース1本、それに着替をそれぞれ3組ほど入れ、自転車に積んだ。残った食品は私たちを家まで送ってくれた、Kさんの塾に避難していた人に持って帰ってもらった。Kさんの塾には夜になると大勢の人が集まってきていた。
私たちはこの日、大阪に住む妹の家に行くことになった。妹たちは両親やこどもたちと暮らしているので、私たちより大変な状態になっていると思っていた。そんな妹たちが私たちを車で救出するためあちらこちら所在を尋ねたと聞いてまづ驚いた。そして、昨日の電話で、今お店から帰ったと言った妹の言葉に、仰天した。お店が開いているの?
戸締りは
ドアが閉まらないのでリビングの扉を内側からガムテープで貼った。 夫の部屋の扉には鍵がついていた。夫の部屋と和室の間にある押入れは数年前に両方から使える洋服ダンスに作り変えたので、リビングから洋服ダンスを通って夫の部屋、そして扉に鍵をかけて玄関へ、と行ける。これで戸締りは十分。
リビングから玄関への通路
ただ、通過する和室1は、パソコンを始め、シンセサイザーなどのコードが絡み合って、落ちているので、私が滑り降りたベッドを乗り越えて洋服箪笥に入る、という方法であった。
和室1の写真
右上辺りにベッド (私はこれらが落下する直前に真中辺りを通過)
国道2号線
西宮への国道2号線の歩道は東に歩く人のゆっくりした流れになっていた。車道は人が歩くほどの速さで車が動いていた。リュックを担いで歩いている人は歩道からはみ出し、自転車、オートバイ、歩く人に車道の端は使われた。西宮に近づくと 神戸を出ていく人、神戸に入って来る人と、ともに同じくらいの数だった。入ってくる人は水の入ったポリ容器をいくつも下げていた。途中で動けなくなるのではないかと思うほどの荷物も持っている人もいた。荷物を持っている人たちがぶつかるような事も無く人々はゆっくり流れた。
夙川べりで昼食をとった。沢山の鳩に囲まれ、少しきみ悪かった。夫はこの辺りから歩みが鈍くなった。
西宮市に入ってから、西宮北口駅まで相当あった。北口駅近くのスーパーの自転車置場に自転車を置いたとき、鍵をかけないで、反対方向へ行く人に使ってもらおうかと迷った。しかし、この後また家まで自転車で行かなければいけないこともありそうだったので、鍵を掛けた。西宮からは10数分、神戸とは別世界の騒音にあふれた大阪に驚き、地震が局地的であったことを知った。
妹の家では風呂が沸かされていた。お布団には電気毛布が敷いてあった。お茶がおいしかった。
大きなテレビが死者の数を伝えていた。義弟の両親が夕食にお寿司を準備してくれた。
医院で
大阪に着いて早速夫の頭の傷を見てもらうため医院に行った。傷はもう治っていた。
医院で、地震直後、大阪から神戸に駆けつけ、潰れた家から母親を助け出したという人が隣に座っていた。17日夕方に火の手が上った辺りにお母さんは住んでいたという。あの火は暖を取るために点けた火が燃え出したらしいと言われた。火の手からお母さんを助け出したという事でもあった。私が多くの人の死をただ思っていた時、瓦礫の中の命を探し求めて動いていた人達に、思いは至らなかった。]]>
阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 5
http://mog1326.exblog.jp/8059834/
2008-04-14T11:09:00+09:00
2008-05-11T07:30:17+09:00
2008-01-23T22:09:25+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
借家探し
朝から家探しをした。**不動産というチラシを持って、とりあえず1ルームマンションを見に行くと、チラシに載っていた分がつぎつぎに契約済みとなり、残りは少なくなった。
夫の通勤に便利な阪急と御堂筋線の交差点近くに、3DKの家がみつかり、保証金に夫のへそくりは大貢献した。 契約は翌日からにしてもらった。
東京から息子と娘とが1時に着いた。新幹線もこの日から一部新大阪まで来るようになったそうだけど、二人は京都からは電車だったそうだ。 娘は風邪をひき、熱が39度もあってすぐ床に着いた。その晩、私と息子は予約していたホテルに泊まった。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 6
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2008-04-14T10:23:00+09:00
2008-05-11T07:40:03+09:00
2008-01-24T21:23:26+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
自転車で神戸へ和室2の家具の様子 矢印は倒れた方向
私は和室2を片付けた。和室2の押入の襖は中の物に押されて2枚ともはずれていた。
倒れなかった和タンス
和箪笥の上に置いた木箱が天井との隙間を埋めていたため、他の家具のように倒れず、北西向きに少し回転して、半分ほど飛び出した引き出しに支えられていた。
和ダンスと並べて置いていたデスク型本箱は飛び出した本の上にばったり。本箱を持ちあげると中身が垂直に落ちてきた。
天井板に切り込んだ照明器具
天井板に鋭い三角錐の切り込みを2つだけ残して照明器具は北北西に飛んでいた。
カーブした板ガラス
プラスチックのフィルムを貼りつけた食器棚の板ガラス扉は、食器に押されて、カーブしていたが割れなかった。
冷蔵庫はジャンプしていた
冷蔵庫の上に観音開きの棚を天井ぎりぎりの高さに置いていた。20秒の激震は1センチほどの隙間を使ってジャンプを繰り返し、前に7センチ横に5センチほど動いた。なんと恐ろしいことかと思ったが、それだけではなく、その下に私の愛用していたピンセットをふんずけていた。
来るのに3時間かかっているので帰りは、ライトもないので、2時までには出発したかった。電話もひっきりなしにかかってきて、電話を受けている間に2時40分になっていた。
帰りは43号線を走った。上が高速になっているので、道が落ちたり傾いていたり、支柱が曲がっているなど、恐ろしい光景が続いた。鳴尾辺りで43号線から離れ、残していた2個のおにぎりを食べた。神崎川を渡る頃はすっかり暗くなり、ライトが無いのでなるべく明るい道を行くことにした。大阪市内に入っても道はいつまでも続いた。妹の家に着いたのは6時20分、煮物、お刺身、塩湯での蟹とご馳走が待っていた。娘も寝ておれなかったようで、銀行や借家の手続きに付き合い忙しい一日だった。息子はその晩借家に行った。
夜、私は左足の土踏まずが痛み、眠れなかったが、朝になると痛みは取れていた。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録7
http://mog1326.exblog.jp/8074641/
2008-04-14T09:19:00+09:00
2008-05-11T07:30:51+09:00
2008-01-25T20:19:36+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
雨が降っている。ヘルマンハイツ(神戸市東灘区)の道に亀裂が入リ、住んでいる人たちに避難命令が出ているというニュースが入っていた。学校のなどに避難している人たちは寒いことだろう。
この日 電気洗濯機、テレビ、照明器具、布団、冷蔵庫、湯沸かしポット、包丁、急須、茶わんなど生活に必要なものが一通り、妹の家から運ばれた。
1月23日
持ち帰ったワープロとファックスに電気を通してみた。プチと小さな音がして電気がついた。あのような恐い目に逢ったのに、この小さな機器が生きていたのだ。
この日西宮、三の宮間のバス運行が始まった。
1月24日
お風呂用品(洗面器、椅子、石けん箱)、トイレの便器カバー、足置き、時計、座布団、など細々した物を娘と買いに行った。
1月25日
この日神戸(魚崎)に行く予定だったが、次の日 阪神電車が青木まで復旧すると知って、中止し、娘とデパートに行った。
夜、娘が手続きしてくれていた電話がついた。高いところから落ちたファックスフォン(電話)が壊れずに使えるのがうれしい。早速電話機を床に置いて母に電話した。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 8
http://mog1326.exblog.jp/8082755/
2008-04-13T15:05:00+09:00
2008-05-11T07:38:17+09:00
2008-01-26T21:05:46+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
エレベーターが動いていた
青木駅まで阪神電車が復旧した。娘と8時頃、地下鉄で梅田へ、そして阪神電車の急行に乗った。リュックを背負った人達が大勢乗っている。遠くから親戚を尋ねてきている人たちなのだろう、身を小さくして辺りに気遣いを見せている。しかし窓の外の想像を越える倒壊風景が連続してくると、体をよじって驚きの声を上げている。電車は非常にゆっくり動いた。
青木で降り、あの80度ほど傾いた高層建物が見える所に行き、建物から脱出した人たちのその時の恐怖を想像した。
我が家のマンションの入り口に、バナナやパンなどが沢山入った箱が置いてあり、管理会社の人が立って自由に持っていくようにと促していた。焼き芋を持ってきていたが、パンを2個もらった。
思いがけない事にエレベーターが動いていた。部屋の電気も点いた。
後片付けは和室1(私の部屋6畳)を残してだいたい終わっていた。大切なシンセサイザーやパソコンも棚ごと引っくり返った。シンセサイザーは小型ではあっても音も作れるので長い間愛用した。もし壊れていたら、もうシンセサイザーは止めようと思っていた。
今そのシンセサイザーの点検をする。
棚をそっと動かし、つないでいたコードをゆっくり外していった。シンセサイザー、ポリフォニック、シーケンサー、ベースなどそれぞれをつないでいるコードの数は多い。やっとシンセサイザーが持ちあげられた。電気の差し込みのあるところに持っていって恐る恐るつないでみると、電気が点いた。次にヘッドフォーンを付けてキーを押さえてみた。音が出ていた。”生きていた”と思わず声になった。次にシーケンサー、これも点灯したが、これ以上のテストは今は無理。ポリフォニックも、ベースもみんな点灯した。
パソコンはだめだろうと思っていたが、これも動いた。パソコンは初期のもので、(FM7)ワープロはできないがプログラムが楽しめる。
ファックス、携帯用ワープロに続いてシンセサイザーなどの機器が全部動いたのには驚いた。これらの機器が片付くとベッドの上を通らなくてもいいので、洋服ダンスの通過が容易になった。(注 これら一連のものは私のボランティア活動に必要なものであった)
私が通過した跡(矢印)
2時頃余震があった。
隣のOさんの家はベランダのドアのアルミサッシと壁の間に10センチほどの隙間が出来、外が見えたそうだ。Oさんはあの日こどもさんが置いていったソファーベッドを使って寝ていたそうだ。地震と思って起き上がろうとしたときには すでに頭の近くにタンスが倒れていて、頭をぶつけたので、何だろうと、両手を顔から14、5センチの所に持っていくと、つるつるした板があったのでタンスとすぐ分かったと。また左右前後から倒れてきた色々の置物が顔のうえでぶつかりあって、体がちょうどその隙間に入って助かった感じだったが、倒れてきたタンスの重みでベッドの足は折れていたと話された。今は小学校に避難しておられる。
私は和室の片づけを終えると、布団など(近いうちに運ぼうと思っている)をまとめた。
大型のバッグ(車輪付き)に電気ストーブと衣類を入れて大阪に帰った。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 9
http://mog1326.exblog.jp/8098641/
2008-04-13T14:00:00+09:00
2008-05-11T07:31:25+09:00
2008-01-28T19:55:05+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
レンタカーを借りて荷物を運ぶ
1日レンタカーの残りの券を使って荷物を取りに行くことにした。1枚は地震前日に須磨寺まで行って、使った。残りの1枚で次の週、淡路島の水仙を見に行く予定だった。レンタカーの運転にはO大学の大学院生、Aさんが来てくれた。Aさんの家は長田区にあり、今回の地震でたいした被害は無かったらしいけれど、三田の方に避難しているそうだ。家族からの連絡がその日に無く昼夜待っていたと話していた。心配しながら連絡を待つた1日がどんなに長かったことだろう。
2号線は通行禁止になっているので、43号線を走った。思ったほど流れは悪くないと思っていたところ、甲子園の近くで1キロ行くのに2時間くらいかかった。3車線が1車線になり、さらにその1車線も無くなり、信号のある所で車を43号線から出す作業が行なわれていた。朝ご飯を食べていないというAさん、お握りを食べてもらう時間がここでたっぷりあった。高速道路を出された後の一般道路は崩れた家が道をふさいでいたので、広い鳴尾御影線を探して、走った。大阪から3時間かかっていた。
前日、布団などを袋に入れていたので車に積むのに時間はかからなかった。
シンセサイザーも積めるというので、テープ レコーダ-などと一括して毛布に包んで乗せた。
私は電車で帰り、家で待った。みんなが揃ったら焼肉のお店に行こうと思っていたけれど、予定より遅いので、急いですき焼きの材料を買って、待った。
この日に運んだもの、敷き布団3枚、毛布3枚、掛け布団3枚、枕2個、シンセサイザー、シーケンサー、ポリフォニック、ドラムマシン、ビデオ、BSチューナー、ダットのテープレコーダー、ケンウッドのテープレコーダー、花瓶2コ、急須、盛り皿、服3着、電気ヒーター2個、ワイン3本。
このように書いてみると私の大事なものは布団に包み、夫にはワインだけという不等な感じがにじむ。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 10
http://mog1326.exblog.jp/8108779/
2008-04-13T13:19:00+09:00
2008-05-11T07:32:27+09:00
2008-01-29T23:19:54+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
大阪の町中を運転してレンタカーを返し、その後ハンガーや突っ張り棚などを買いに行った。
1995年1月29日(日曜)
妹たちが ワゴン車で神戸へ
娘は東灘小学校へ
娘は災害救助のボランテイアで東灘小学校へ。義弟はワゴン車を借り、大きな荷物を運びに神戸に。警察で緊急用のマークがもらえたということで、2号線が使えた。渋滞も無く、1時間と少しで家に着いた。マンションの入り口には壊れた家財やガラスなどが積まれて、路が狭くなっていた。
車が大きいので、この日は夫の机を運ぶことにした。机も大きいけれど、椅子が大きいのでこれだけで一杯になりそうだった。しかし、こたつや大型テレビなど手で運べない大きな物がほとんど積めた。
帰りも1時間くらいで、2時に帰り着いた。
電話がつながり、このところお見舞いの電話が続いている。
夕方芦屋の I さんから電話があった。「Nさん大丈夫でしたか」「ええ、貴方は」「無事でした。連絡先が扉に書いてあったけれど、大阪におられるのですか?OさんやSさんが、Nさんにいくら電話をかけても通じないので、貴方しか行ける人はいないの。行って見てきて、と言われたので、今日お宅まで行ったのです」「まあすみません。遠いところを。途中が危ないのに大丈夫でしたか?」「主人と東京から帰ってきた息子に一緒に行ってもらったの。息子は他にも安否を確かめたいところがあったので、気にしないで。途中の崩壊した家々の恐ろしい様子が思い返され、言葉もないわ」 I さんは3駅も先から歩いて安否を確認に来て下さったのだった。
Oさん(垂水区)とSさん(西区)そして I さんの3人を含む計7人はこの後 “79人の20秒” と題して阪神・淡路大震災の小冊子をまとめることになる火曜会という名の仲間である。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 11
http://mog1326.exblog.jp/8115570/
2008-04-13T12:47:00+09:00
2008-05-11T07:33:12+09:00
2008-01-30T21:47:30+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
SさんOさんに電話をした。二人は震源地に近いはずなのに、大きな被害は無かったそうだ。R(灘区)さんは大変との連絡をM(西区)さんから聞いていたので、今日はRさんにも電話をした。Rさん宅は崩壊したわけではなかったけれど窓が壊れて寒く、死んだ方がましだったなどと弱音を口走られた。RさんMさん共に火曜会のメンバー
1995年1月31日
娘は東京へ
私はビデオカメラを持って神戸へ
娘が東京に帰った。新大阪駅までは送らず、地下鉄のホームで別れた。阪神電車は満員。紙袋にビデオカメラを入れて、持ってきたが、通常の撮り方は出来ないので、レンズの所に穴を開け、ビデオのスイッチを入れたまま歩いた。
この日初めて地震の映像に向き合った。
どの辺りを歩いたのか覚えていない。
紙袋の中でカメラが斜めになっているので、見難いが映像はそのまま、
建物の名前は消した。
右、1階が潰れて無い こんな所は多い
2号線からは12間道路を北へ行き、そこで、K新聞の代金を支払った。正月7日間の新聞を(留守のため)止めてもらった記録が残っていて、地震までの10日間1000円でいいですと言われたが、2000円を払って、Tさん宅へ。ここは地震の翌日泊めてもらった所で、Tさんは名古屋に移転することになり、塾は処分したそうだ。しかし、塾をすぐ止める事はできないようで、数人のこどもたちがTさんの居宅で食事をしていた。
地震から2週間、鳴き声で犬が助け出されたというニュースを聞いた。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 12
http://mog1326.exblog.jp/8130944/
2008-04-13T11:44:00+09:00
2008-05-11T07:35:12+09:00
2008-02-01T20:44:19+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
この日は鳴尾御影線から甲南本通りに入ってみた。
写真は国道2号線より
本通りの両側は火事ですっかり焼けていた。
お米屋さん(お米や調味料などを配達してもらっていたお店)は潰れて、倉庫でお店を開いていた。請求書がまだ出来ていないということで、支払いは後日で、となった。
生協(甲南)などの大きなお店の営業が始まっているそうだ。
この日は 炊飯器、湯呑み、あんか、などを持って帰った。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 13
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2008-04-13T10:03:00+09:00
2008-05-11T01:01:19+09:00
2008-02-04T10:57:41+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
梅田から、阪神の特急に乗り西宮からビデオを撮った。ビデオは先日のように紙袋に入れてレンズの所に穴を開けた。
阪神青木駅より歩いて
お米屋さんで支払いをした後 A新聞の販売店に支払いに行った。1400円の支払いは今でなくて、半年後でも1年後でもいいと言われた。
マンション建物の調査結果が出ていた。要注意の黄色い紙が張られ、落下物に注意するようにと書いてあった。
火曜会のMさんに夜電話をした。
三宮のマンションに、被害はなかったけど、娘(小学生)ともども倒れたタンスの下敷きになり、抜け出す事が出来ず、息苦しくなった。同居の母親が助けてくれたけれど、それ以降こどもがマンションに行きたがらないと言われた。
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阪神・淡路大震災 13年前の 私の記録 14
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2008-04-13T09:05:00+09:00
2008-05-11T01:00:27+09:00
2008-02-05T21:05:47+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
阪神電車で当日深江にいたという人が話し掛けてきた。
4階建ての4階で遭遇。地震の揺れは上下振動がどんどんどんという感じ、次はぐらぐらぐらと、横ゆれ(私の感じとは違っている)。この人は揺れで転び、立つことが出来ないでいたところにお風呂の残り湯があふれ出て、びしょぬれになったそうだ。揺れがおさまり、外にとびだしたが、割れたガラスであちこち怪我をして、東灘小学校へ逃げた。小学校へ援助の物資が届き始めたのは20日頃。今日は青木からバスで三の宮へ行きそこから神戸まで歩いて姫路に帰るところだけど、市内に近付くにしたがって足がすくむと言われた。
紙袋に入れて撮ったビデオより
お隣のOさんは魚崎小学校で避難生活をしておられるそうで、小学校では食事は出るし、お風呂にもつれていってもらえた、と疲れた様子だったけれど、お風呂がうれしそうだった。
流しの匂いがきつくなっていた。17日に取り置いた水は、魔法瓶とやかんに残っている。1週間前に買ってきた麦茶1リットルパックを少しづつ使って手を洗ったりしていたが、今日はお風呂の残り湯をバケツいっぱい使って、流しを洗った。冷蔵庫の中も片付けてお茶で拭いた。
食器棚の皿に押されてカーブしていた引き戸のガラスの反りはすっかりもとに戻っていた。ガラスがカーブするなんて考えられないので、砕けているのではないかと思って触ってみたが、割れてはいなかった。
洗面所でタオルを入れていた棚の扉は引きちぎれて、玄関に飛んでいたが、ガラス部分にフイルムを貼っていたので、ガラスは割れていなかった。
プラスチックのフイルムを貼るとガラスは砕けても粉々にならず、後片付けも簡単。
マンションを出る時 管理人さんに出会った。管理人さんも家が傾いて、昨日、家の撤去を申し込みに行ったそうだ。完全に崩壊したわけではなかったけれど、皆が撤去するのでその影響で崩れてしまっても困るので撤去してもらうことにしたと。
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阪神・淡路大震災 13年前の私の記録 15
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2008-04-12T15:39:00+09:00
2008-05-11T00:59:24+09:00
2008-02-06T18:39:36+09:00
mog1326
私の阪神・淡路大震災
園田のOさんをお風呂に誘ったところ、Oさんは薪でお風呂を沸かし、神戸の人に入ってもらっているという事だった。次に芦屋の I さんをお風呂と洗濯に誘った。I さんは17日以来まだお風呂に入っていないそうだ。水で体を洗っているけれど、洗うたびに風邪をひくみたいと笑われた。仕事が終わるのが夜になるので大阪までお風呂に行くのは無理と。
西宮のNさんは水もガスもまだなので、立花駅から5分の所にあるお風呂に行っていると。不自由ながら I さんを除いてそれぞれお風呂に入れていた。
この日東灘の家に着いたのは11時過ぎ、家のドアを開けるのがこの頃大変になった。少しの隙間を作ってその間に体を入れて開けるのだけど、腰を痛めていてその動作が苦痛だ。やっと通れるほどの隙間を開け、手押し車をもち挙げて通し、その後体を細くして入る。
今日はベランダを片付けた。土は後日使うので、ナイロンの袋に入れた。あれから19日間生き続けていた植物に、お風呂の残り湯で掃除した後の真っ黒な水をかけて、日の当たりそうな所に置いた。
1995年2月5日
お昼過ぎ妹がお灸をすえに来てくれた。しばらくは腰の痛みがやわらいだけれど、夕方にはまた痛くなった。電話の度に立ち上がるのに、腰が痛むので、コードレスをセットした。
この日の夜は安否を気遣ってくれた人たちの手紙に返事を書いた。中に高校時代の先生からの手紙が見つかった。すぐ電話をしたところ、先日Tさんからの電話で、無事だったことは知ったけれど、東灘の死者にNと出るとひやりとしていたといわれた。
留守がちで私と連絡が取れない人たちが、安否情報をあちらこちら尋ねていたようで、申し訳ないことだった。
1995年2月6日
腰が痛いので今日は魚崎に行くのは止めた。腰が痛いのは腰をいたわりすぎるからではないかと考え、立ち上がる時に手を使わないことを始めてみた。
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