2.邪馬台国近畿説と九州説を別けた「陸行」
中国魏の歴史書「三国志」に、西暦3世紀の頃の日本のことが倭人伝として記録されています。その中に、卑弥呼の国、邪馬壹国への道のりなどが書かれていますが、その道程の読み方の違いで、邪馬台国の九州説と近畿説に見解が別れているようです。
問題となっている部分、九州北部不弥国から卑弥呼の都邪馬壹国への魏志倭人伝の原文は次のようになっています。
魏志倭人伝原文はこちら
「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」
読み・・・投馬国へは南へ水行20日、官(役人)は曰彌彌 副は曰彌彌那利 戸数5万戸餘
続いて
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」
読み・・・ 邪馬壹國女王之所都へは南へ水行10日 陸行1月 官(役人)は有伊支馬 次は曰彌馬升 次 曰彌馬獲支 次 曰奴佳鞮 戸数七萬餘
邪馬台国近畿説では次のように読みます。
1、東を南と書き間違えた。
2、水行20日、水行10日の後、引き続き1月歩くと鹿児島を超え、海か南の島となる。
東であれば、近畿、大和である。
私は陸行の所を 歩けばと読みました。
魏志倭人伝の道順の記述法を辿ると、方向と距離が規則正しく書かれています。南へ水行10日の後の陸行1月。この陸行の前には方向が書かれていません。
水行の合計30日、陸行の1月(30日)。船でも歩いても同じと私は解しました。
日本にまだ文字が無かった時代のこと、魏の歴史書の中に刻まれた日本(倭)についての魏志倭人伝の原文から当時の日本の姿を垣間見ようと、この貴重な記録をもとに、南水行20日、南水行10日と推定される辺りの旅を思い立ったのです。
私は卑弥呼の都として西都原、宮崎市一帯をマークしました。
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