24.隋書
581年 中国は隋に変わります。
この頃倭国に朝鮮半島から文字が入ってきた、とあります。
百済から仏法の経典によって、初めて文字を知る。となったようです。
600年
倭王で姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)が阿輩雞弥(あわけみ)と名乗って長安の宮廷に使いを遣わせた。
中国は朝貢などで遣わされた人に、その国のことをいろいろ尋ね、記録しています。
阿蘇山が噴火している話があります。
「阿蘇山があり、そこから噴き出た石はただの石でしかなくて特段の理由がないのに家などに火をつけてしまう。噴煙が天まで上ると異変とみて祈りの祭儀を行う」
この阿蘇山の噴火は気象庁の記録から、553年のものと思えます。
装や履物などは絵に描かせて、記録しています。
文字が入ってきたことで、国の形が,文として出来てきたようです。
宮室は城柵を備えている。城郭は無い。この「城郭は無い」はこれまでにも語られています。
内臣の官(位階)には12の等級。
大徳 少徳 大仁 小仁 大義 小義 大礼 小礼 大智 小智 大信 小信 各等級の員数には定めが無い。
(地方を治める) 軍尼(くに)は120人
伊尼翼(いねぎ)80戸ごとに一人の伊尼翼(冀)を置く。10人の伊尼翼は一人の軍尼に統属されている。
兵器は弓・矢・刀・ホコ・弩(いしゆみ)・ヤリ・斧がある。戸数は10万戸くらい。
気温は温暖で、草木は冬も青々と生えている。小さな輪を鵜の首に取り付けて潜水して魚をとらえさせる鵜飼いをしている。
新羅と百済は倭国が大国で珍しいものが多いとみなし、ともに倭国を敬い使いを送って行き来している。などもあります。
607年
倭王の多利思比弧が小野妹子を使わせて朝貢。小野の妹子から、多利思比弧=聖徳太子と分かります。多利思比弧からの国書「日の出る東の国の天子が、日の沈む国の天子に国書を送る。恙なく息災であろうか云々」を見て煬帝は不機嫌になったと隋書にあります。それは東とか日が沈む西ということではなく、隋の帝は天子であるが、倭は王であって天子ではないということで、不愉快にさせられたとあります。
その翌年、煬帝は文林郎の裴世清を倭国への使者として、遣わせ、筑紫から東へ瀬戸内海を通ったようで、十余国を経て海岸に達す、とあります。海岸とはどこなのか、調べてみると、「ここはつば市(椿市)(海柘榴)」とあります。
写真は数年前につば市を通た時のものです
つば市は大和川の上流にありますが、
この頃は淀川の上流だったと聞きます
河川敷の壁面に描かれていた絵は
裴世清のものでした
この時数百人,鼓角を鳴らした出迎え、10日後にまた2百余騎を従えて郊労せしむとあり、10日間どうしていたのだろうと思い、いろいろつなぎ合わせてみると、その間に裴世清は倭王に会い、王は大いに喜び、とあります。そして「皇帝の命はもう伝達した」それで帰りの守衛をしてもらいたいと言い、帰り、妹子が随行しています。
妹子は煬帝からの国書を途中でかすめ取られたと偽り、倭国に持ち帰っていません。
当時の倭王は推古天皇(女帝)ですが、そのことには触れられていません。
そして、こののち国交は途絶えたとなっています
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