25-1 旧唐書 東夷伝倭国日本国条
日本 が現れますが日本は倭国の中の別種か、あるいは倭国を併呑したと書かれています。
「その国の人で中国に入朝する者は多くが誇り高ぶって本当のことを言わない。中国はこの人たちの発言の内容を疑っている」と、
書かれています。
一方で経書・史書を読み、漢文を綴る嗜みがあり、温和で優雅な使者には官職を授けるなどの好意が向けられています。また、経書
などの教授の機会を整えるなどの好意を受けています。
中国でもらったりしたものはみな書籍に変えて日本に持ち帰ったとも書いてあり、遣唐使たちが文字をもち帰るという情熱、エネルギーに感動します。
倭国の王は多利思比弧、一大卒を置いて 諸国を査察監督している。倭国では居住している所に城郭が無く木を用いて柵を作ってい
るとたびたび出てきます。争いが無く、平和であるというようなことを強調しているのでしょうか。
25-2.新唐書
倭国王の姓はあめうじ(阿毎氏)という。倭国の王は自分で、初代の主(あるじ)は天御中主と号したと言っている。
彦瀲に至るまでおおよそ32世、みんな尊という号を付け、筑紫城にいた。(筑紫の日向との記載もあり)
彦瀲の子の神武が立ちあらためて天皇という号にし、国の行政府(つまり首都)を大和に移した。次は綏靖といい、次は安寧、次は懿徳次は孝昭・・・・・・・・・・・・・・・・・次は用明で、この王はまたの名を(阿)目多利思比弧ともいう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・次は皇極である。
驚きました。
ここでは神功皇后が王となっていますが、日本の歴史では王ではありません。
小野妹子の登場は聖徳太子の時と分かります。日本の歴史で、聖徳太子は天皇になっていません。倭国の王は自分とありますから、実質は天皇だったに違いありません。天皇の制度を作った人でもあります。
旧唐書の中で、この国の人たちは誇り高ぶって本当のことを言わない。中国はこの人たちの発言の内容を疑っている。と書かれてい
るのは。日本の国の形を作ったことに携わった人たちだったのでしょう。
日本書紀は中国の歴史書を参考にしたとあります。
中国の歴史書に出てくる倭国は「倭国伝」として書かれていますが、魏志倭人伝は独立した書となっています。
卑弥呼の時代、日本に派遣され、壱与が女王として育つまでのほぼ16年間、倭国で過ごした長征が中国に帰ったのは、魏志倭人伝の著者陳寿が30歳の時に当たります。魏志倭人伝の内容は長征によってもたらされたものでしょう。